千と千尋の神隠し

『千と千尋の神隠し』を読んで

平成16年1月14日

①千尋が元気になれたのは何故か?心の視点でみてみる。

千と千尋の神隠しというタイトルが、韓国では、「千と千尋の行方 不明」というタイトルになってるらしい。物語の最後に、千が、現 実に戻ってみると、千尋のまわりには何事も起こっていない。両親 には時間の流れは感じていない。しかし、車のボンネットには埃が かぶっているのを、千尋はたしかに手で触れている。何かがおこっ た。行方不明になった千尋。神隠しにあった千尋が、不思議の世界 を旅しているうちに、千尋はたくましくなった。生きる勇気が出て きた千尋。この物語は、生きる力をなくした(うつと離人症?を呈 している)千尋の心の旅であり、千尋の無意識の世界での出来事と もとれる。ひいては宮崎 駿の世界観ともいえよう。
この物語を、ユングのいうアニマ、アニムス、影(ユングはそれら を元型と呼んでいる)や集合の無意識と心の視点から眺め、それぞ れの登場人物の性格とその関係、特に千尋のその男性性の面(アニ ムス)と女性性の面(アニマ)、や影との関係などに注目して考え てみた。
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②千尋の出会い。名前を奪われることの意味。

不思議の国で、店に並んだ料理に我を忘れて食らいつく両親。その貪欲な食いざまは,まさにブタの姿そっくりであった。
両親がブタにされたのをみた時、私は拒食症の子たちを思い出してしまった。ひたすら禁欲を求める彼女たち。聖と俗に対象を分けて考える彼女たちにとって、拒食は俗に染まらぬ無意識の防衛策であり、欲望に取りつかれて、ガツガツ食べる姿は、そんな彼女たちからみても、俗っぽく、まさしくブタの姿にうつる。 両親がブタに変えられたのを見て、仰天して、何がなにやら判らなくなる千尋。そんな千尋の前にハクという謎の少年が現れる。「何も判らなくても、とにかく今は・・」と湯屋に向かうよう促す少年ハク。戸惑う千尋の旅はこうして始まった。

本能的な欲望を刺激するという仕掛けをしたのは、あきらかに湯婆婆であり、その場所が、テーマパークの廃墟と化した町というのが、象徴的である。彼等が心の旅に旅立てるかどうかを、その店(欲望の町のその店)でふるいにかけたのであろう。いかにも湯婆婆らしい仕掛けである。
千尋は戸惑いながらも、食べなかった。それは、千尋が無意識に選んだ道でもあった。それが千尋の心の旅、無意識の旅のはじまりを意味していたといえよう。
湯屋に行った千尋は、そこで湯婆婆に名前を奪われてしまい、かわりに”千”という名で働くようにと命じられる。実は、千尋を励ます少年ハクも又自分の本当の名前が判らなくなっているのだという。名前を奪われるということは何を意味するのであろうか。名前を奪われると、アイデンティティーがさらに揺らぐのは当然であろう。ただでさえ生きる力を失っているのに、追い打ちをかけるように、湯婆婆に人格を否定されたといえよう。それでも生きていかなくてはならない。
ハクもまた、住む場を失い、途方にくれていて、そのために魔法使いになって何かを成し遂げようと思い、湯婆婆に弟子入りを頼んだが、逆に湯婆婆に、名前を奪われてしまったようなのだ。

過酷な運命の千尋とハク。その最大の危機に面して、千尋は、ハクに励まされる。さらには釜爺やリンといった心の中の助っ人達も、動き始める。その心強い味方に、少し勇気が出てきた千尋。しかし、何といっても、千尋自身がそこに留まる覚悟を決めなければならない。
「ここで働かせて下さい」と湯婆婆に勇気を奮って必死に食い下がる千尋。ここでもさすがは湯婆婆だ。千尋の名前をあっさりと奪い、冷たく”千”という名(仮面)で生きていくよう命じるのである。情けなさに、ハクの前で思いっきり泣くが、思いっきり泣いた後、道は一つしかないと覚悟し、地道に働こうとする千尋。千という名(仮面)の下でひたすら働くのである。心の中では千尋でなくてもいい、千という仮面をつけて、千尋は次第に逞しくなっていく。

③油屋という不思議な場所(魔女が支配する湯屋)

千尋の入り込んだ油屋は、これ又不思議な場所であった。
神様が入りにくるという風呂屋、八百万の神様がリラックスして、くつろぐ場。何か対立的なものが融合するような不思議な場、極めて日本的な雰囲気を感じさせる。湯屋の天井階にはそこを支配する魔女の湯婆婆(グレート・マザー)が、坊という巨大な赤ん坊(過保護の赤ん坊)が、そして階下にはカエル男やナメクジ女や、階上と地下を繋ぐ役の元気者の娘リンがいたり、地下のボイラー室には、釜爺という蜘蛛のような魔法の手もつ老人(老賢者的存在)がいたりと、湯屋のあまりにも豊かな住人達に驚かされてしまう。そして、湯につかるのは庶民的な匂いを感じさせるユーモラスな神さまたちである。ユングはそういう不思議な無意識の世界を、誰しもが心の中にもっているという。ただ意識化できない場合が多いといい、元型とか集合の無意識とか名付けている。薬湯を調合する老賢者の元型、釜爺。瀕死のハクも地下で釜爺に見守られて、命を取り留める。地下は釜爺の存在でもって豊かを増し、地下から湯屋を支えているのがわかる。

④泣くこと、そして(千という仮面をつけて)働くことの意味。

思いっきり泣いた後、がむしゃらに働こうと決心をする千(千尋)。そんな湯屋に、ある日ヘドロをかぶった臭い神様がやってくる、 オクサレ神である。時々やってきて風呂でくつろいで身体を清めて帰っていくオクサレ神。でも身体の中に抱え込んだヘドロを取り除いてくれたのは他ならぬ千(千尋)であった。
千(千尋)の大活躍で、身体の中にたまったヘドロをすっかり落としたとたん、湯船の中で本当の姿、河の主が姿を現す。そのオクサレ神の本当の姿は河の主だった。オクサレ神はその化身だったのがわかり、その神々しい姿に一同驚嘆。
高笑いしながら湯屋を去っていく河の主から、千(千尋)がその活躍の褒美として授かったニガダンゴ。それは魔法の食べ物であり、それが後々、カオナシ(影)とハク(男性性の面=アニムス)の命を救うことに役立つのであった。
思いっきり泣いたのを境に、千(千尋)の旅が受け身的な旅から能動的な旅へと変化していくのがわかる。泣きたいとき思いっきり泣くことがいかに大事か。そして、ひたすら働くこと。向こうの世界(心の世界)でも、こちらの世界でも、こつこつと地道に働くことがいかに大事か。白雪姫は、こびと達(ユング派は7人のこびと達を神様の化身とみる)のためにただひたすら家事をやり、シンデレラ(灰かぶり)も同じく、父や義母、義姉妹のために竈の灰をかぶって働く。この世でも、向こう側の世界(心の中)でも、誰かのためにこつこつと働くことが、いかに、自分自身の心の成長(アニマの成長)につながっていくことかという示唆に富むものであった。そして、河を守り、そのヘドロをかかえて湯屋でくつろぐ河の主。現実の河は汚れていても、河の主が、こうして向こうの世界にいて、こちらの世界を支えていてくれている。
これこそがアニミズムが息づいている世界であろう。その存在の奥深さ・・・。

⑤湯屋でおこる、影との追いつ追われつの大騒動

千尋は、湯屋に向かう橋の上で、カオナシという名の不思議な男と出会う。カオナシは「アーウー」しか言えず、飲み込んだ相手の声を借りてしか人と話ができないという、まるで影のような人物。 そのカオナシによって湯屋にとんでもない事態が起こる。河の主が置きみやげに落としていった砂金が欲望の種に火をつけたのがきっかけで、その砂金に次々に群がるカエル男やナメクジ女達。欲望の虜になったその人たちを次々に飲み込んでは巨大化していくカオナシ(影)。そのお祭り騒ぎで、次第に変貌し欲望の館と化していく湯屋。そのきっかけをつくったのが河の主というのがまた不思議である。
欲望の渦の中で肥大化したカオナシ(影)はそれでも飽きたらず、千尋の気を引くため砂金をあげようとする。まるで自分の満足感の共有を求め、合体を求めていくかのようである。影というものの本質がそこに現れている。影は元々自分の主の身体にくっついているのが自然なのであろう。しかし、千(千尋)は、自分が求めているのはそんなものではないことを、必死で伝え、とっさの知恵でもって、両親を助けるために大事にとっておいた魔法のニガダンゴをカオナシの口に放り込んで、飲み込んだもの全てを吐かせることで、何とかカオナシ(影)を沈静化させ、湯屋から逃がすることができた。

⑥愛、そして光と影。

影の問題がようやく一段落したが、まだ千尋には、やるべきことがあった。ハクのことだ。盗みから瀕死の重傷を負ったハク(血まみれ白竜)。その命を救うため、千尋は、電車で沼の底にある銭婆の家に向かう旅に出る決心をする。その決意に、見守り続けてきた釜爺は、ぽつり、「愛なんだなー」と。
海の上を静かに走る電車の中でのカオナシは、出会った頃のあの静かな無表情のアーウーのカオナシであった。千尋に寄り添うカオナシ。その光景は、あまりにも自然で、千尋を光とするとカオナシはアーウーの物静かな影といえよう。影との付き合いは本来的には困難なことであろうに、人の心の中ではこうも自然に寄り添えあえるのであろうか。2人共何も語らず静かに沼の底に向かう電車の旅。宮崎 駿は、その場面に宮沢賢治の銀河鉄道の夜のイメージももっていたようである。本当はその場面で映画を終わりたかったという。しかし、子供達に何か勇気なるものを感じてもらいたいという思いもありその後の展開を書いたという。

⑦銭婆の家の中で。

一行は銭婆の家で歓迎され、その家の食事をとり、銭婆に励まさ元気になるというのは、ちょうど育むグレートマザーのふところ(母の子宮)で滋養を得ることにつながり、そこで生きる力を得ることへと繋がっていった気がする。帰り際、千尋は銭婆から手編みの髪どめをプレゼントされる。坊達みんなが一生懸命力を合わせて紡いで、銭婆が編んだ髪どめであった。暇乞いをする時、「私の本当の名は千尋っていうんです」と千尋が感謝を込めて挨拶すると。「千尋っていうのか、いい名前だねー。自分の名前を大切にね。」と銭婆。最後まで自分の本当の名前を忘れなかったのは、友達が送った花束に添えられてあったカードのおかげであった。そろそろ千という仮面もいらなくなってきている、千尋の心の旅も、そろそろ終わりに近づいてきたようだ。銭婆の家を出た時、4人はすっかり元気になっている。坊もいつの間にか、這い這い  から一人で立てるようになっているのがわかる。ここでも、誰かのために力を合わせて働くことが、いかに心の成長につながるかがわかる(坊は、いずれはマサカリ担いだ金太郎になるのだろうか?)。

⑧カオナシ(影)との別れと、ハク(アニムス)との再会

帰る頃になって、銭婆の家に残るように言われたカオナシは、すんなりそのまま銭婆の家に残ることになった。千尋(光)とカオナシ(影)の別れである。グレートマザーが分けてくれた。若いときは影と別れておくほうがいいのであろう。
帰ろうとしたちょうどその時、ハクが瀕死の状態から回復し迎えにきて、千尋とハクは喜びの再会をはたす。二人(実際は坊とユバードも一緒に)は空を飛び帰途に。その時、千尋によみがえった不思議な懐かしい感覚。そして千尋がかつておぼれて命をおとしかけ たこと、その時は、小さすぎて、はっきり記憶になく、母親から聞かされていた、その河の名。助けてくれたハクの名前。それらが一気に脳裏をかすめ、千尋が「あなたの名は・・」と言葉にした瞬間、ハクも自分の本当の名が”ニギハヤミコハクヌシ”という名であることを思い出す。千尋が「まるで、神さまみたいな名前」と言ったその瞬間が、千尋の小さい頃助けてもらった恩返しができた瞬間であった。白竜の凍っていたような鱗がはがれ、白竜は元のハクの姿にもどる。
二人が手を取り合って月夜の空を夜明けに向かって飛んでいる光景は、二人が一つに溶けあって、空に静かに浮かんでいるようでもあるが、しっかりと前に向かっているように感じられた。湯屋に戻った千尋が、ブタになった両親を助けるのに、もう魔法のニガダンゴは必要はなかった。坊が千尋たちと家出?をして歩ける姿で帰ってきたのを見て、湯婆婆も大喜び。千尋のおかげであった。

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最後に

人は、生きる元気をなくしかけたとき、意識しないでもカオナシを 生きることが多い。アーウーの言葉すくなの状態を生きているが、 それでもその人の心の中の登場人物達はいろいろな関係の中で動き 、そして物語りが始まり、起承転結がおこる。

10才の少女にとって、転校で友達を失うのも辛いが何と言っても 心の中で両親を見失ったことが何より辛く、孤独であった。生きる 力をなくした千尋。心の中で見失った両親、ブタにされた両親を発 見し救出できるか、それが千尋のテーマ。心理学的にいうと、喪の 儀式あるいはイニシィエーションということになろう。同じような 転校がトラウマになってあとあと、心に不都合が生じカウンセラー を訪れる人もいる。千尋はその時、心の旅をしてしっかり戻ってき た。

二人が手を取り合って月夜の空を飛んでいる時、千尋はかつて幼い 頃、おぼれた体験を、その時ハクに助けられていたことを、ハクも また、忘れていた自分の本当の名前を、思い出すことができた。二 人は、助け助けられ(死と再生)体験を通して、お互いを深く理解 し、結びついて融合していったものと思われる。二人が一体になっ て夜明けに向かって飛ぶすがたは美しいものであった。

人は、誰かに助けられ、誰かを助けることによって、生きる勇気を 得て成長していくのがわかるような気がする。たとえ現実の世界 (意識の世界)で何事も起こらなくて  も、心の中で起こるだけ でもいいのであろう。アーウーを生きる引きこもりの子たちもをそ ういう意味での心の旅ができるといい。
この物語の最後には、カオナシ(影)は銭婆の家に残り、ハクは千 尋に「自分は遅れて帰る」という、「絶対振り向かないで」と言い残 して。結局千尋は一人で、一人でこの世に帰ってくる。ヘンゼルと グレーテルが一緒に帰るのと対称的である。グレーテルの場合、現 実に戻っても、まだお兄ちゃんのヘンゼルに頼っている。その点、千尋はもう現実を立派に自分の力で生きていけそうである。

「誰かが、あなたを待っている」・・・ アウシュビッツ収容所体験 の中でもそう信じた精神科医フランクルの言葉である。千尋の心の中 にも、たしかに自分を待っていてくれる人達がいた(心の中の共同 体、心の中の共同幻想?)。千尋の心の旅。元々は、転校という苦 い体験から始まった旅であった。トンネルを抜け、元の現実世界に 戻った千尋が、後ろ髪を引かれる思いで、今きた道を振りかえった その時、髪どめがキラッと光り、まるで「後ろを振り向かないで、 前へ」とでもいっているかのような一瞬の光であった。きっとこれ から先も、大事な瞬間に、髪留めはキラッと輝いて呉れるにちがい ないであろう。そしてそれは、みんな(影や、坊や、湯バード)が つむぎ、銭婆が編んだ組みひもなのである。10才の少女ですら 、このような豊かな世界が心の中に息づいていると思えるとき・・ 人間存在の驚きと同時に、無意識の奥深さを感じずにはいられない。

両親を捜すために大事に残しておいたニガダンゴを、いざという段 になって、カオナシ(影)に与えるという千尋の行為は一体何を意 味しているのであろうか。
宮崎 駿の世界観を想像しながら、我が子にきくと、素直に「カオ ナシを逃がしてあげたいからだよ」という。一瞬エッとなった私。 こどもは後先を考えないものなのだ。欲望の固まりと化した影です らあっさり救ってあげるという行為が、大人になるとなかなかでき ない。名前も奪われ、アイデンティティーの危機に見舞われた千尋 。その心は失うものがないゆえ、求めるものにまっすぐに向かう心 につながるのであろう。そのことの普遍的な意味は、ものに執着し ない心といえようか。心の底のほうで何か本質的なものを求める心 の動き。それは・・・聖書の「貧しきものは幸いである」という言 葉。宮沢賢治の「デクノボウ」と呼ばれてもいいというこころに、 深いところで通じているこころといえよう。執着しないこころ。則 天去私のこころ。もしかしたら、宮崎 駿はそういう世界観を表現 したかったのだろうか。
そして、向こうの世界で、河の主がヘドロをかぶって歩く姿(オク サレ神)に、托鉢の行者や巡礼者の姿も重なってみえたりする。 こちら側の世界が、いかに向こう側の世界(心の世界)によって 支えられて成り立っているのか、ということをあらためて感じさせ られた。そして、心の中の共同体、心の中のアニミズムの息づき・・ など、その新鮮で新たな切り口。宮崎 駿はそれを見事に映像で示 してくれた。・・・驚きであった。  宮崎 駿に感謝。

(文責 かなで代表)